「どなたか自殺がいけないことだという具体的な理由を述べてください」





  XXについて





 自殺とは、人間に与えられた権利だと考える。人生に行き詰ってしまった人、失敗だったと感じる人は、自殺をしてしまったとしても仕方がないことだ。
 自殺は一般的に駄目だと言われる。それは何故なのか、私は問いたい。
 上手くレールに乗れた人はいいかもしれない。それなりに安定した将来があるだろう。では、それがない人、到底あるとは思えない人はどうすればいいというのか。
 安定している人に限って、それを「頑張れ」とか「皆大変なんだよ」とか、そう言った無責任な発言をしていく。
 そんな人達に言いたい。「おまえに何が分かるのか」と。そして、できるものなら、人生を交換してやりたい。こうなってしまったのも自業自得なのかもしれないが、生まれ育ってきた環境だって全く違う人間にそんなことを言われたところで、説得力もないし、何の意味もない。
「生きろ」というのは、結局は単なる死ぬ気のない人達のエゴの押し付けである。それは、もし、私の好きな人達の誰かが自殺をしようというものなら、本気で止めるだろうから、私にも分かる。ただ、私のエゴの押し付けだとしても、生きて欲しいと思うだろう。
 しかし、自殺をしたいと思う人達は、人生に悲観していたり、安定した将来など望めなかったりするのだから、具体的な解決策を提示してくれないことには、「生きろ」というような人達の話を聞いても無意味なのだ。
 この話は矛盾しているかもしれない。だが、どちらも真実だ。
「生きろ」というのであれば、エゴを押し付けているということは自覚するべきだろう。生きることを押し付けてはいけない。死にたいと思っている人が送る人生の責任なんて取れるわけがないのだから。自分の人生は自分の責任で生きていかなくてはならないのだから。

 さて、そんなことを今ここで語っている私は、だからといって、特に人生を悲観しているわけではない。いや、悲観しているといえば悲観しているのだろうが、それでも私なりに冷静に考えた結果、無理をして生きていく人生に何の意味も価値もない。と思っただけだ。
 正直なところ、私は人間が嫌いだし(一部除く)、人付き合いも苦手だ。理由を述べれば長くなるし、あまり関係もないと思うのでここでは語らないが。
 社会の中で生きていくには、嫌でも人付き合いを上手くこなさいといけなく、何の特技も能力も持っていなかったとしても働いていかなくてはならない。特に私のようなお金を持っていない貧困層は、仕事がなくなった時点で人生が終わりと言っても過言ではないと思う。これは私の持論なだけだが、たとえば、何か悪さをしたり、生活保護を受けてまで生きようとは思わない。それは、極端で、プライドが高いだけなのかもしれない。しかし、では、そこまでして生きて何の意味があるというのか。そもそも人生に意味を求めること自体が無意味なのかもしれない。

 人生がただ自分のものだというのであれば、死に方だって自分で決めても問題はない筈だ。むしろ、その方が全てを綺麗に整理できるので、いいことかもしれない。立つ鳥跡を濁さず、だ。
 人間は一人では生きていけないという。だったら、死ぬまでのこと。
 生物には生きようとする生存本能や、種の保存を行ったりするのだろうが、特にどちらにもそうしたいという本能が沸かないというのは、もしかしたら、もう生物とすらいえないのかもしれない。もしくは、大袈裟にいえば、進化し過ぎてしまった人間か。

 ――要するに、もう生物ともいえない「死にたい」という人間について、他人がそれを無責任に止める事はできないし、自殺を否定できる明確な理由など存在しないのだ。

「意見や質問があれば、受け付けます」




 小説じゃない……!
 もう自分、何を書いてるのか分からない!
 文章下手だなぁ。
 本当はもうちょっと物語的な部分というかやり取りとか追加しようと思ったけどやめときました。
 そして、本当のタイトルは『自殺について考えることと私が自殺したい理由』です。長過ぎたので省略しましたん。


――――2012/06/08 川柳えむ